昭和52年07月17日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身上、月役、妊娠、つわりに腹痛まず、腹帯をせずして、産前身軽く、隣り知らずの安産、産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし、不浄、毒断ちなし、平日の通り。」

 私共少しばかりの知識、少しばかりの医学、まあ現代の医学と言う事は大変な進歩をしておるというのですけれども、神様の眼から御覧になればまだまだそれは幼稚なものであろうと思います。この八十五節を頂くたんびに思うのですけれども、確かにそうだと。所が現代の医学で言われておる事、前は少しばかりの知識といったものに縛られて、矢張りまあつまらん苦労をしておる。
 平日の通りとか腹痛まずとか、不浄毒断ちなし平日の通り、産前身軽く隣り知らずの安産のおかげを受けられると言う様な、そのおかげが頂けるのだけれども、私共の少しばかりの知識がね、そう言う事になって居るんだ。こう言う時にこうしなければならない、と決めておると言う事は、いわば自分を縛られておる様なもんです。だから窮屈だ本当に自然に即効した行き方と言うのは、
 教祖様が仰るこの様な御教えからそう感じられます。と言うて他の動物と同時にもう自然の成り行きにその任せ切ると言うか没頭すると言うか、と言う事でも出来ませんのでしょうけれども私共が縛られんで済むおかげを頂きたい。ために私共が観念と言うかね、観念しておると言うその観念と言うものをまず取り去らなければいけない。例えばお商売させて頂く。暑い盛りに入りましたからどうしても商売がいつもの様に無いと、言うのはこれは暑いからに観念されておる、観念しておる。
 今日は雨降りだからお客さんが少なかろうと思い自分で観念しておる。だからそう言う観念を取る事が信心だと。農繁期だから商いが少なかろうと、もう自分でそう決めておるから少ないんだと。私は今日のこの八十五節の、こりや産婦に対するご理解でしょうけれども、同じ意味の事が言えるんです。いわゆる平日の通りの商売が出来るんだと言う事です。だから平日の通りと言うて、例えば今まで千円の売上げであったのが一変に一万円になると言った様な事ではないのです。
 それは毎日千円の売上げがあるならばその千円があなたの所の家の力、店の力なんです。だから店の力を大く頂いてね、二千円がたの力、三千円がたの力を頂けば平日の通り三千円の売上げはあると言う事。それに自分で決めてかかる、農繁期だからと愈々夏だからと夏枯れな時期だからと自分で夏枯れと決めてしもうている。の観念を取ると言う所にやはり信心がいる。
 昨日の御理解の中にまあ死生観と言う事がね、まあ色々に説かれました。日々信心の稽古をさせて頂いて教祖様の教えて下さる事を本気でいけずる事になる、そこには教祖様が一分一厘間違い無いおかげを持って、はっきり見せて下さる。おかげが受けられんのは自分の信心の不行き届きとして、自分の信心の不行き届きを詫びて又信心に進んで行くと言う様に、限りなくこれが繰り返されて行く時に教祖様は本当に嘘は仰っていないなあ、教祖様が教えて下さる通りのおかげが受けられるなあと言う事になるのです。
 そこでならここで私が教祖様のみ教えに本気で取り組ませて頂いて、まあ言うなら天地日月の心なる事が肝要だとこう仰せられて、だからなら天の心とは、地の心とはと追求して行くうちにです、本当に天の心が解り地の心が解り、日月の心が解って生活全体が天地日月の心になると言う様な生き方が出来て来るときに、成程天地が自由になると仰せられる様なおかげが頂けると言うこと。その教えの一つ一つが行じられるそして、そこに間違いない神様の働きおかげが受けられる。
 だから例えば眼に見えない所の御理解がある。昨日のは御神訓でしたかね、信心の心得の所にあった『生きても死んでも天と地は我が住家と思えよ』と言う御神訓でしたよね。ですから実を言うたら生きてもと言う所は、実際もう信心が解れば成程神様のお生かしのおかげを頂いとると言う事も、本当に神様の懐の中だと言う実感が頂けるのだけれども、生きておる間はそうだけれども、死んでもと仰る所はまだ死んでみとらんから分からん。魂の行方と言うものはどこえ行くのだろうか。
 それを教祖は生きても死んでも天地の中より他に行く所はないんだぞと、この世でおかげを頂いておる通りのおかげが受けられるぞと、勿論心の上に居ますのね、体の事ではない。勿論あの世と言う所には、形は持っていかれない魂だけ、魂の世界だだから此で自分の魂が救われておるとか、助かっておるそのままがあの世での助かりなのだから、この世でいよいよ助かっとかねばいけないぞ、光を頂いとかねばいかないぞ、あの世と言う所はもう本当に暗黒だ、光のない所なんだ。
 だからこの世で光を頂いて行かねば、あの世ではどうにも出来ない所なんだぞとここでは合楽理念を説くわけですね。それとても私が行って見た事がないから暗黒やら、どうやら実際は分らんのだ、けれども他の例えば御教えを行じてです、他のみ教えを頂いてです、成程教祖様が嘘を仰ってはないんだと言う事をです、私共が実証して行くのです。例えば今日の御理解で行くと、今日のご理解を全てに縛られる事なく、いろんな言い伝えとか少しばかりの学問で医学なら医学を勉強したと。
 現代の医学ではこう言う例えば妊産婦には、それはもう1週間おきには例えば病院に行きなさい、診て貰はねばいかん、いかん時には注射うって貰にやいかん、薬も飲まにやいかん、カルシュ-ムの薬も取らにやいかんと言った様な、いろんなね。それがいらん、いかんと言うのではないけれどもです、教祖様が仰る様な行き方を本気で私共が観念を捨ててこの通りの事をさせて頂く事になってくると言うならば不浄毒断ちなし、言はば平日の通りのおかげが受けられると言う事。
 それでもまあだ、まだ例えば私の家内がもうこちらに引上げて帰ってから三番目の愛子までは、まあそれでもまあ、逆子でしたけれども丁度その時に、大分から北京で掛かっておった産婆さんが、夫婦で遊びがてら来ておったんです、ですからその産婆さんが逆子専門と行った様な産婆さんでしたから、私が善導寺にお願いに行っておるその間におかげを頂いて、もう首に何重にもまいとったけども、それは見事な安産のおかげを頂いとる。もうそれ以来と言うものは、私の家内は隣り知らずの安産でございました。
 又私の家内が、このみ教え通りに行じたかと言うとそうではない。成程腹帯なんかはした事がない、いうなら今の様に産院でお産をすると言う様になってないから医者にもかかってない。まあ言うならば教祖の仰しゃる御教えに本当に近いけれども出来ない所はお詫びをして行く事で、まあ出来たかの様におかげを下さるのでしょうか、まあ隣り知らずの安産のおかげを頂く。だから出来ない所は御詫びして行く。
 例えば観念をすてろ観念をすてろと言うけれど、今日は雨が降るけんお客さんが少なかろうと言う様な気持ちがパッとこうよぎりますよね心の中に。その時は頭をこう打ち振らにゃいかん。もう観念が出てきよる。神様本当に不信心な、まあだ信念が浅いから、まあだこんな神様の働きの邪魔になる様な考え方が、頭の中に浮かんで参りますと御詫びをして行く様な気持ち、例えば降ろうが、照ろうが、暑かろうが、寒かろうが、例えば此拠の御参拝の数と言うのはもう大体一定している。
 私の力が少し出てくると今度はまた百名づついみって行く。また少しづ々出来て行くとまた百名づついみって行くと言う様にです。だからそれは今申します様に千円の売上げが二千円と言う訳じゃないんだけれどもです、千円だけの力を頂いておるのだから二千円の売上を頂く者にはどうでも二千円がたの力を頂く信心精進をせなければいけない。言うなれば自分の観念をいはば取っていけれる言うならおかげを頂かなきゃいかん。観念に縛られてはならない。
 もう本当に縛られると言う事は、確かに窮屈です。言うなら自由無碍の世界に住み、自由無碍のおかげが頂ける、それはどう言う事かと言うと必要な物が必要におおじて頂けるおかげ、心が自由無碍である。縛られてない只有り難い勿体ない、自由自在に自分の心を有り難い方え、有り難い方えと、つこうて行けれる。言うならばどうゆう昨日のご理解ぢゃないけれども突発的な子供が生きるか、死ゐかと言う時にも平日の通りのおかげを心の中に頂いておる。
 だから平日の通りのおかげに成って来るわけです。だからそういう心の状態を求めて行く、そう言う心の状態を造って行く精心をする、そこに教えがあるのです。教えがちゃんと道をつけてくれるのである、この頃昼の夏期信行に短い御理解を頂きます。丁度今月一杯で、丁度十年間にあの夏期信行だけに皆さんに聞いて頂いた御理解が、所謂ミニ御理解がその十年分溜めてあるのが丁度教典を二回通り回ることになる。それでもまだ二十日足りないわけです。
 そこで最近こちらの最後の百節の方から神様は下さるんですね。ですから今月一杯夏期信行が終わると同時に印刷屋に渡される様にして下さるわけですから、あのサッサと矢継ぎ早やにヒントを下さるわけです。今まではね、例えば今日の御理解が終わったから明日の御理解をお願いしても絶対にここに座らなければ頂けなかったんです。この頃は神様も少し急いでおんなさるとじゃろうと思うんです、下さるんです。
 そして間に合うようにと言う事、こんどの御理解感話集というのが神様の願いでもだからあろうと思うんですけれども、今日の所はですね、六十二節いや、六十五節かなそれをもう昨日頂いとるんですよ。例えば日柄方位は見るに及ばぬ普請作業は使い勝手のよいのが良い家相じゃと言うのがありましょうが。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても雨風が強うてはと言う、日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えと言うあの御理解です。明日この御理解は六十五節かなと思ったら頂く事がね。
 矢張り日柄も方位もあるかも分からんと言うのです。けれども金光様の信心を頂いとる者はね、天地の親神様から鑑札を受けておる様なもんじゃと仰った。だから日柄もなければ方位もない、言うなら使い勝手の良い普請としても良いと言うのです。実際は無いのでしょう、けれどもあると言えばあるのですけれども、そのあると言うてそれを学問に仕立ててあるのですからね。
 日柄でも方位でもやっぱりちゃんとした一つの学問になっておる。だからあると言えばある、だからあると言うのは縛られた今日の御理解で言うと、窮屈な広い天地を狭い天地にせなければならんと言う事になるでしょう。けども金光様の信心を頂いて御取り次ぎを頂いて、今日はどこにやらせて頂きますからと言う時には、もう日柄もなかなければ方位も無い。此々に家を建てさせて頂きますからと言うなら、なら使い勝手の良い様にサア-便所はあそこにせにゃいかん。
 井戸はここにと言う様な事はないと言う事。使い勝手の良いそれは鑑札を受けておるからと言う、それに鑑札を受けずに回りよるけん、いわば捕まえられて罰金を取られる事になるのだ。と言う様な御理解を昨日頂いたのです。ですから今日の御理解もです、矢張り私共が平日の通りと言う様なおかげを頂くためには、私共の心が観念に縛られておるその観念を、出来る限り教えに応じて取り除いて行く、こうしてこうすりやこうなる、自分で決めた様な考え方は間違いなんだと。
 こう言う行き方になりさえすれば知らず知らずの安産を受けられるんだと。そういう例えば自由無碍な世界に住まわせて頂けると言う事は、そのまま自由自在の心が使えれると言う事にならなければいけないんです。そこにはです自由無碍のおかげの世界があるわけです。必要なものが必要に応じて頂けると言う世界があるわけです。だからそう言う高度な世界をおかげの世界を目指してお互いが信心を頂くのでございますから、縛られない日常それこそ日々が有り難い平日の通り。
 どう言う事が起こっても平常心というか平日の通りで過せれる道があるとするならその道を矢張り極めて行かなければいけないと言う事です。今日は八十五節から平日の通りと言うほどしのおかげを頂くそう言う願いを焦点にして、私達が平日の通りのおかげが受けられない丼がある、商売でなら売れたり売れなかったり、そして農繁期になると事ひとつと、売り上げが落ちてしまう。
 夏枯れちゅぅと本当に枯れてしまう。そう言う事ではなくてです、夏枯れもなからなければ雨降りもない。こちらが力さえ受けておけげ平日の通りおかげが受けられる。そこに観念を打破して行く又は迷信を打破して行く。そこから六十五節ですか言うなら本当に迷信だけれどもそれを信じて学問にまでして行くとやっぱり無いとは言われんと言う事実もある分け。
 だからそう言う事は迷信だと、打破してしまえばもう無い事になる。それでも私共の心の中には矢張り昔から言うて来とる事はと言う様な考え方があるからお取り次ぎを頂く、だから金光大神のいわば信者氏子である者はいつも鑑札を持って歩いてる様なものであるから。日柄もいらなければ方角もない、家を建てるにも、使い勝手の良いのがと言う、だから鑑札を持っての言うならば生活。
 それが本当の信心生活と言う事になるんではないのでしょうか。平日の通りといわれるほどしのおかげを目指して、観念の世界から本当に 自由自在に自分の心が有り難い方え使えれる自由無碍の世界え、住み替えて行けれるほどしの信心を合楽では解いておるわけです。だからそれを稽古して観念が段々無くなって行く様なおかげを頂かねばならんと言う事ですよね。
   どうぞ。